あおまる3210のブログ

ヨレヨレ子育てと、ゆるゆるアウトドア

コロナ禍と子ども達の生活などについて思うこと

コロナ禍の生活がはじまって早2年。

流行に乗って感染も経験したし(笑)、いろいろ思うことをまとめてみた。

 

①人の考えは本当に千差万別だということ。

コロナというたったひとつの病気に対してさえ、全く同じ考え、認識、対応をしている人は周りにいなかったような気がする。

夫とは珍しくほぼ同じ立ち位置のような気もするけど、それでも全く同じではない。

人はみんな違う。

同じ人間なのだからわかり合えるはずだ、みたいなことは、決してない。

そうではなくて、違う人間だからこそ、お互い相手に対して想像力を働かせ、違う意見も尊重しないといけないと、改めて思う。

 

②日本の政治がこんなにひどいと知った。

政治家は、当選しないと始まらないから、多数派である高齢者優遇の政策となる。

そんなまさか、そこまであからさまなことしないやろと、コロナ前は思ってた。でも…まじか…そのまんまやん。

子ども達の虐げられようはひどい。

健全な体を作るための運動も、コミュニケーションの機会も、ワクワクする経験も、全部奪われている。子ども達は声をあげることすらできず、粛々と従わざるを得ないのに。

感染対策が悪いとは思わないし、予防も必要だけど、その代償が大きすぎると私は思う。

そこまでの犠牲を払って、いったい何を、どこまで守ろうとしているのか。

どう見ても命ではなく、高齢者の評判のような気がしてしまう。

家族そろって感染したけど、見聞きしていた情報と違わず、2日もたたずに治った。え?これにかからないために、ここまで大騒ぎしてるわけ?

薄々ずっと思っていたけど、決定的だった。

若者が選挙に行かないから…とも言われるが、そもそも今の高齢者は団塊世代。みんな選挙に行ったとしても人数の差が大きすぎる。

豊かな日本を作ってきた方々を、ないがしろにすべきだとは思わない。高齢者や持病のある方々を守ることも必要。

だけど、今後の日本を作る若者、子ども達の未来だって、同じように大切に守らなくてはならないはずだ。

“クレームを言われないために”子ども達に過剰なまでの予防対策を強いるのは、どう考えてもおかしい。

 

③それでも、愚痴ばかり言うだけの生活は送りたくない。

コロナについては、いろいろ言いたいことが多すぎて、夫と話しててもお互いついヒートアップしてしまう。

でもねぇ…この時間は、本当に無駄。

どうにもならないことに愚痴を言い続けるのは不毛だ。

それよりも、コロナ禍でも?だからこそ?やれることをやって、楽しく生きたい。

私と子供の自己肯定感

 

自己肯定感って、昨今子育てしてたらキーワードみたいに語られる言葉。

 

ようやく最近になって、何となく意味がわかってきた気がする。

「自分ってすごい」「自分が好き!」「何でもやれそうな気がする」

とかいうことじゃなくて。

「私ってアホだわ」「何でこんなことで凹むんだろ」「こんなこともできないなんて」「私は何の役にも立たないんだなー」

…というネガティブな思いもすべて、「そーなんよね、困っちゃうんよね」と、とりあえずさらりと受け止められること。

自分を外から眺められる、というか。

 

私の自己肯定感は、たぶん人より低い。

なぜか?人のせいにしたくないけど、やっぱり親の影響は大きかったと思う。

1番子供に言ってはいけないこと、それは、「人格を否定する言葉」。

子供の行動や言動に対して怒るのは、まだいい。

でもそのとき、グズだとか融通が効かないやつだとか、アンタはいつもそうだとか、子供そのものを否定してはいけない、ということ。

こういう言葉を度々向けられると、子供は自信をなくしていく。

どうせ私なんか…僕なんか…

私も例外なく、こうした思いに囚われたまま、ずーっと生きてきたような気がする。

特に中学生の思春期真っ最中の頃は、そんなにしょうもない子供なら産まなければよかったし、何なら殺してしまえばいいのにと、今思えば内側荒れてたなぁ。

別に虐待されていたわけではないし、経済的につらい思いをさせられたわけでもないのだけど。

 

大人になって、普通に生活ができるようになると少し自信もついて、ある程度はごまかして平穏にすごす術を覚えた。

でも、ふとしたときに顔を出してしまう。仕事で失敗をしたときなど、自分のポンコツさを思い知ったとき。

「どうせ私なんか…」

そうなったら、それを自分自身が受け止めきれないもんだから、なかなか抜け出せない。

私だけでなく、日本人にはこんな人が多いのような気がする。

 

でも最近、“そんなの見方ひとつ”だと、やっとわかってきた。

第一、人と自分は違う。比べて凹んでもしかたない。その人にしかわからない苦労や悩みも、きっとある。

能力の差も、あるんだからしかたない。それでも私は私で、生きていくしかない。

線を引かないと、いけなかったんだな。

いつも、できる(ように見える)人を自分と同じところに並べていた。だから嫉妬して落ち込んでしまう。違うんだ。人はひとりとして同じところにはいない。

 

そして…できない一面があっても、それが私。それが事実。

ぼーっとした人間で、気遣いに欠けた人間でも、もしかしたら、そのことが誰かを安心させてるかもしれないし。

やっと、こんなふうに自分を外から見ることが、できるようになってきた。一進一退、少しずつではあるけど。

 

もし、親からあまり自分自身を否定されなかったら、もっと早く、何なら小さい頃からこう思えたのか、それともやっぱり親の影響は大きかったのか、それはわからない。

あと、全てでなくても親のせいにする自分も情けない。もう少し早く気づいて、自分で修正できたのではないか。

でも、私にとっては子供の頃、そうやって否定された場面が今でも記憶から消えないし、どうしてもそう考えてしまう。

 

なので、子供には、どんなにキレても人格そのものを否定しないようにしている。

いやいや、まずキレるのをやめなさいって話なんだけどねぇ…

 

「NHKみんなのうた」ベスト!

子どもの頃、よく聞いてた「NHKみんなのうた」。

お母さんといっしよ、のついでに見てただけなんだけど、メロディと絵が、ずーっと心に残っている。

 

たまにものすごく懐かしくなって、無性に聴きたくなる。

 

そんな私の好きな「みんなのうた」ベスト。

 

 

1位 雪祭り

【うた】後藤拓、東京放送児童合唱団【作詞】みなみらんぼう【作曲】みなみらんぼう【映像アニメ】アニメ:とこいった

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雪国の神秘的な感じがたまらない歌。

冬の厳しさが、青や紫の絵から伝わってくる。

雪国育ちじゃないからこそ、私の中ではゾクっとする雰囲気が漂っていた。

そして、春を運んでくる郵便やさんがなぜか邪悪な笑み!不気味すぎる。。忘れられない。

 

 

2位 こだぬきポンポ

【うた】下條アトム【作詞】鈴木悦夫【作曲】大山高輝【映像アニメ】アニメ:堀口忠彦

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これはもう…絵が素敵すぎる。

そして、包み込むような優しい歌声もとても合っていると思う。

毎年あの子を待つポンポが、かわいくて切なくて切なくて、…泣けます。

大人になって、動画で何十年ぶりかに観たとき、本当に泣けた。

 

 

3位 恋するニワトリ

【うた】谷山浩子【作詞】谷山浩子【作曲】谷山浩子【映像アニメ】アニメ:若井丈児

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この歌は、なんと言っても歌詞が素敵。

風見鶏に恋してしまったニワトリさんの、かわいいことかわいいこと。

“庭にはニワトリ おもいをこめて

ひとりでタマゴを うみました”

子ども心にも、ニワトリさんの気持ちが少しわかったのかもしれないなぁ、なんて。

 

 

4位 ふたごのオオカミ大冒険

【うた】ルディ・マスヤーニ、劇団若草【作詞】W.ヴァルディ、訳詞:柴田陽平【作曲】W.ヴァルディ【映像アニメ】アニメ:月岡貞夫

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これは、タイトルそのまま、ふたごのオオカミが大冒険するお話。

こっそり抜け出して怖い思いもたくさんして、帰り着いたらみんなが暖かく出迎えてくれる。

途中でお父さんの教えを思い出したり、ふたごの帰りを待つ親の気持ちとか想像したら、これも泣けてくる…

メロディが頭から離れない。

 

 

5位 南の島の花よめさん

【うた】木の葉のこ【作詞】北井あゆ【作曲】越部信義【映像アニメ】アニメ:芝山努

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これは、歌声と絵が好きで♥

貝殻とか蝶の羽でウェディングドレスを作る花よめさん。

花むこさん、丸太のカヌーで隣の島からやってくるの、すごー

最後は、太鼓叩いて踊りましょう♪

いやー、かわええです〜

 

 

このほかにも

メトロポリタン美術館

コンピューターおばあちゃん

◆まっくら森の歌

◆ラジャ・マハラジャ

◆アップル パップル プリンセス

◆かんかんからす

もう名曲ばっかり。懐かしい。。

 

最近の歌では、遊佐未森さんの「クロ」が好き。

じっくり聴いてると、また涙が…。

(おいおい)

 

私は、感性豊かでも感動しやすいタチでも全然ないけど、琴線に響きまくりだなぁ。

子どもの頃に聴いた歌だということが大きいのか、それとも純粋に楽曲の力なのか、わからないけど。

 

心の中にこんな歌があることは、幸せだと思う。

ありがとうみんなのうた

豊かに生きるということ

動物の世界は、弱肉強食。

弱者は食われ、強者は生き残る。

例えば、障害のある個体は、逃げられず食われてしまうし、群れごと危険に晒すことになるから、捨てられたりするかもしれない。

強者だって、明日にはもっと上の強者に食われることもあるだろう。

生きている間ずっとこれが続く。

 

障害者を殺したり、弱者は切り捨ててもいいという世界は、こんな動物の世界と同じだ。

 

動物は、基本的な本能だけで生きている。

だけど人間は、将来を想像する力がある。想像してしまう力、なのかもしれないが。

動物と違って、明日も生きていられるという安心感を人間は求める。

 

人間誰でも、老いたら必ず弱者になる。

老いより早く、事故や病気で障害を持つ可能性もある。

ということは、弱者切り捨ての社会は、いずれ自分が切り捨てられる社会ということだ。

そんな社会で、安心して暮らすことなどできない。

 

けれど、基本的な欲も満たせないほど社会が貧しくなったら、動物の世界に戻ってしまうだろう。

食べるのに必死、寝床を見つけるのに必死。

間違いなく弱肉強食の世界が待っている。

弱者になっても安心して暮らせる社会は、事実に基づいた知識や、人を思いやる知恵が優先される社会。

そのためには、基本的な衣食住の心配をしなくてよい、文化的な環境が維持された社会が必要だ。

だから、失業者が街に溢れている社会はダメだ。本能が知恵や知識より優先されてしまう。

だから、国は豊かにならねば、成長せねばならない、ということになる。

現状維持ではなく、少なくとも上向きでないといけないのだろうと思うが、このあたりは勉強不足。。

 

私は、動物的でなく、人間的な社会に暮らしたい。

世の中弱肉強食なんだからしかたない、なんて、どんなときにも言いたくない。

本能は大切にすべきものでもあると思うけど、知識と知恵が優先される世界であってほしい。

1番活躍した子どものおもちゃ

子どもが生まれて、いろんなおもちゃを買ったり、頂いたりしてきた。

その中で1番良かったもの。

それはダントツで、レゴ。

 

カラフルでいろんな形をしたたくさんのブロック。

ただの平たい基板に、点在する車輪。

見てると何か作りたくなるのだと思う。

私も幼い頃、いとこの家のレゴブロックで、いろいろ作った記憶がある。

息子小6、未だによく何か乗り物を作ってる。結構器用に短時間で、デザインもなかなか。

女子は、お部屋を作ってることが多いかも。

途中、レゴのお家セットみたいなものも買ったりしたけど、セットだと、それしか作らなくなってしまうから、やっぱり“ただの”ブロックだけで全然いいような。

 

ちなみに、木の積み木に憧れた時期があり(私が)、我が家には積み木も少しある。

だけど…積み木はブロックみたいにくっついてくれないから、積み上げるしかできない。

何かを思い通りに造るには、ブロックの方が適しているんだなと、子どもが遊ぶのを見て感じた。

子どもにとっては、無垢の木の手触りがいいわぁ、おしゃれだしインテリアにもなじむし…、とか、親の都合なんて一切どーでもいいことなわけで。

 

木の積み木をたくさん買いたくて夫に相談したとき、高くね?買って遊ばなかったらどーすんの?と言われ、一瞬ムカッと思ったけど、何となくそーかもと思って諦めたの正解だった。

正解だったのは夫か(笑)。

ちなみに、少しだけ購入した積み木は、時々ドミノ遊びするとき登場してる。

みんなピタゴラスイッチ大好きだったから。懐かしいな。

 

レゴのはじまりは、第一子が生まれたとき、友だちから「出産祝い、なにがいい?」という、ありがたい申し出だった。

自分で何か作れるものがいいなと思い、レゴの幼児用、レゴデュプロをお願いした。

ただのブロックと基板がほしいという私に、いろんな色の大きなレゴブロックを贈ってくれた。本当に感謝。

デュプロの時代にも、いろいろ作ってたなぁ…。

…?土器?みたいなのを作って、得意気に見せてくれたり。

本人も喜ぶから、できる限り、写真に撮った。それは私の大事な記録☺

 

育児の手抜きとカップラーメン

ひとりめの子どもが生まれたばかりの頃。

 

元々無添加やらオーガニックやら興味があった私は、子どもにもなるべくそういったものを与えたくて、いろいろ調べたり、生協に入ったりしてがんばってた。

夫や義母に「そんなにこだわらんでも…」と言われても曲げずに。

そう、私意外に?頑固者なので(笑)

たまに行く外食も、続いてしまうと…ああ、だめだなぁ、と憂鬱になったりしてた。

 

あれから10年以上が経ち、子どもは3人に増えた。

今じゃ週末は外食行くのが普通だし(安いところね)、スーパー行ったらカップラーメンのストックも買う。

マクドナルドもたまに行かないと食べたくなる。

体に悪いものって、、おいしいんだよねぇなぜか(笑)

 

「今日はカップラーメンだよ!」というと、

「やったぁ!」となるし、

お湯沸かしてワイワイやるのは、楽しい。

末っ子は“赤いきつね”がお気に入りで、それしか買わない。長男は決まってデカ盛り。

そんなの眺めるのも、おもしろい。

そして何より、楽、だぁ〜〜〜!!

 

何より大事なことは、私が笑っていられる余裕があること。

私がイライラしてると…家の中の雰囲気が悪くなる。何なら夫まで機嫌が悪くなったりしてね。何でアンタまで!とイラつきながら思ったりして(笑)

自意識過剰…と言われても、そうなんだからそうなんだろう。

 

それなら、私が楽になるように、手抜きしちゃえばいいんだ。

キリキリ急かしながら食べさせる手作りごはんより、子どもの話を順番に聞いて、笑って食べるカップラーメンの方がいい。

そう気づいたのは、だいぶ月日が経ってから。

 

無添加自然派だと、必死になっていたあの頃を否定はしない。

けど、もう少し早くに、「こうじゃなきゃ」ってのを手放してたら、もう少し、笑って過ごす時間が増やせてたかな。

貸しと借りの人間関係

生きていく上で、避けられない人間関係。

いろんな人がいる中で、楽な付き合いができる人と、そうでない人がいる。

仕事であれば、多少の緊張感があった方がいいのかもしれないが。

 

私個人的には、仕事でもプライベートでも、常に「貸し」と「借り」を気にしないといけない人は、正直しんどい。

 

私は人よりぼーっと生きており、ポンコツで気もきかないので、圧倒的に助けてもらうことが多い。

でもそれを何とも思わず、受け入れてくれる人がいる。そうすると私も、逆にお願いされたとき、多少面倒だろうと引き受けることに何の抵抗もない。むしろお互いに、多少のわがままも言えたりする。

 

だけど中には、何かをお願いすると「貸し」だと認識する人もいる。

もちろん、快く引き受けてくれるのだけど、こちらが「借り」だと認識し、言葉に表す必要がある。私、あなたに借りがありますよね、理解しています、ありがとうございます、という感じの。そうでないと、何となくギクシャクしてしまう気がする。

逆にこちらが何かしてあげたら、過剰に「借り」を返されてしまう。私もこうしないといけないのだなと、逆に気が引けてしまう。

 

私は、どっちかというと前者の人の方が付き合いやすい。

何かしてあげてお礼も言われなくても、いろいろ受け入れてくれる人の方が付き合いやすい。

馴れ合い、と呼ぶのかもしれないが、その人の芯みたいなところを、信用しているからこそ築ける関係だとも思う。

 

だけど…考えてみたら、単に“合う”、“合わない”の問題にすぎなくて。

後者の人は、きっと礼儀をわきまえたけじめある付き合いができる人、好きな人だ。

どっちがいいとか悪いとかいうものではない。

 

みんな違う人間、いろんな人がいる。

その中で、“合う”人がひとりでも周りにいることは、幸せなことだ。

そして“合わない”人も、いるのが当然。違う人間なのだから。拒否や否定をせず、心の中で線を引こうと思う。