「みんな違う」が基本になってほしい
最近、“みんな同じ”という前提の話に、違和感を覚えることが多くなった。
別に、若い頃苦労してなくても、修学旅行が楽しくなくても、感じ方なんて人それぞれなんだから余計なこと言わないでほしい。
そう思うのは、自分が人と違った道を歩いてきたから、ではなく、むしろ何より自分が、“みんなと同じ”であることを基準にして生きてきたから。
そしてこの歳になって、ようやくそれに気づいたから。
仮に私は今さら変われなかったとしても、子どもが私みたいになってしまうと、これから生きていくのはきっとしんどい。
それなのに、学校では相変わらず“みんなでひとつになってがんばろう”とか、“文武両道”とか、“みんな仲良く”とかやってるわけで。
運動会とか見ても、もう「軍隊みたいでヤバくね?」とかそんな邪念が浮かんできてしょうがない(でも感動して泣いたりして)。
何で「みんな同じ」前提なのだろう。
学校という場所で輝く子どもは限られる。なぜならそこでの光は決まった面しか照らさないから。
光の当たらない面に、輝くダイヤを持っている子どもはたくさんいるはずだ。
実際今世の中で活躍しているのは、そんな人が多いように感じる。
そのダイヤの原石を、卒業するまで大事にできればいいけど、不出来な部分だけを思い知らされ、投げやりにしてしまう子どもは多いのではないかという気がする。
「みんな違う」前提の方が無理がないと思うんだけど…
「〜する人なんて、社内で(私)さんだけですよー」という言い方をよくする後輩がいる。
きっと、この言い方が人を動揺させるのに効果的だと、知っているのだ。まさに同調圧力の利用。無意識に身に着けたのか、意識的なのかは、わからないけど。
つい「そうか、それはマズイなぁ」と、思ってしまう。
だけどよく考えたら、そんなこと言われても私はその他のみんなではないので困る。
ダメダメな行動は、それはそれとして指摘されるべきであるけど、わざわざ周りと比べる必要なんてない。
なので私は、子どもにはそういった言い方はしないようにしている。
むしろこれからは、「自分がされたら嫌なことはしない」だけでなくて、「私は嫌じゃないけど、あなたは嫌だと思うかもしれない」ことを想像して尊重することが大切だ。
だって“人はみんな違う”から。