理系か文系か、ではなくて
私の職業は、どちらかといえば“理系”と呼ばれる部類だ。
でもこの歳になって、よくよく思い返してみると、私自身は全然理系じゃなかったんだなと思う。
仕事では、時に数字やデータで説明することも求められるけど、数字は間違うし読み飛ばすし、数字で表すのも下手くそ。数字は何かを語るものでなく、ただの数字にしか見えないことも多い。
つまり数字が得意じゃない。
…ということに、ずいぶん歳を取ってから気づいた。我ながら呆れる。
別にここまでの道のりを、ひどく後悔してるわけではないけれど、でももう少し、自分を理解しようと努力すればよかったな、と思う。
じゃあもし、タイムマシンがあったとして、いつに戻れば軌道修正できるだろうか。
私の場合、それは高校生だと思う。
今はどうか知らないが、私の通っていた高校では、高校2年になったら理系か文系コースに分けられた。
田舎の普通高の中では割と成績のいい方だった私は、周りに流されるように理系コースを選んだ。
母親が理系推しであり、子どもに(当時の感覚で)男並みであることを求めていた影響もあるかもしれない。
そして理系コースに進んでから、私は大学の何学部に行きたいんだっけと考えた。
何となく自然科学系の学部を選んだのは、化学のおじいちゃん先生が、余談で語ってくれる自然科学の話が面白かったから。
でも今思えば…それは自然現象そのものを感じることが面白かったのであって、それを示す数字やデータにはあまり興味がなかったなぁと思う。
だけど高校生の私には、それをもっと突き詰めて考える必要性もわからなかったし、情報も全然足りなかった。
それでも、曲がりなりにも学部を選べただけで、まだ良かったのかもしれない。
大学の名前だけが目標になってる人もたくさんいたと思うし、実際学校では学部の内容なんて紹介すらなく、大学の難易度や受験科目の話ばかり。
今思えばそんなことより、自分は何が好きで何をやってみたいのか、それを真剣に考えることの方が、遥かに大切だったと思う。
貴重な時間の大半を、詰め込み型の受験勉強だけに費やすのは、本当に無駄だ。
いろんなことを経験する。そしてそのとき周りからの評価ではなく、自分の気持ちを確認する。好きか嫌いか、もっとやってみたいか、やりたくないか。
その繰り返しで、“自分がはっきり”見えてくるのだと思う。
とはいえ、時間には限りがある。人生の大きな選択が何度もできるわけでもない。
だから、「人の経験を聞く」ということも、いい方法なのではないかという気がする。
例えば、学校の先生はみんな、自分が通ってきた道なら少なくとも伝えることができるはずなのだから、話してほしいと思う。
先生になれたという、ある意味成功体験だけに偏りそうならば、誰彼連れてきて話を聞かせてほしい。
今どんな仕事をしてる人が、どんな場所で何を学んだか。身近な例で全然構わない。
今はインターネットがあるから、自分でいくらでも情報は得られるのかもしれないけど、それでも高校生くらいだと、本当に有益な情報にたどり着くのは、難しいと思う。
人生いろんな道があるんだということを伝えるだけで、子供たちの可能性は広がる気がする。