誕生日おめでとう。
生まれてからもう13年もたつことに驚く。
相変わらずのマイペースさでイライラしてしまうことも多いけど、思えばあなたが生まれてから、その笑顔に和んできた。
ありきたりな表現だけど、そのまんま。
ふとしたときにニコっと笑えるその性格は、小さな頃から変わっていないように思う。
つまり、生まれ持ったもの。
きょうだいの1番上で、否応なしに何でも試しにやらされる役目。
でも、特に怯んだりすることもなく、意識せず飄々とその役目を引き受けてくれた。
たいしたことないよ、けっこう楽しいよ、大丈夫だよ、その言葉が、下の妹たちをどんなに安心させたかわからない。
いや、下の子だけじゃない、1番安心させてもらったのは、たぶん私たち。親だ。
これからどんどん難しい年頃になるし、親元を離れるまで、きっとぶつかり合うことも多いだろう。
でも、人間の根本的なところで、私はあなたが大好きだ。
楽しい人生を送ってくれることを、祈っている。
「みんな違う」が基本になってほしい
最近、“みんな同じ”という前提の話に、違和感を覚えることが多くなった。
別に、若い頃苦労してなくても、修学旅行が楽しくなくても、感じ方なんて人それぞれなんだから余計なこと言わないでほしい。
そう思うのは、自分が人と違った道を歩いてきたから、ではなく、むしろ何より自分が、“みんなと同じ”であることを基準にして生きてきたから。
そしてこの歳になって、ようやくそれに気づいたから。
仮に私は今さら変われなかったとしても、子どもが私みたいになってしまうと、これから生きていくのはきっとしんどい。
それなのに、学校では相変わらず“みんなでひとつになってがんばろう”とか、“文武両道”とか、“みんな仲良く”とかやってるわけで。
運動会とか見ても、もう「軍隊みたいでヤバくね?」とかそんな邪念が浮かんできてしょうがない(でも感動して泣いたりして)。
何で「みんな同じ」前提なのだろう。
学校という場所で輝く子どもは限られる。なぜならそこでの光は決まった面しか照らさないから。
光の当たらない面に、輝くダイヤを持っている子どもはたくさんいるはずだ。
実際今世の中で活躍しているのは、そんな人が多いように感じる。
そのダイヤの原石を、卒業するまで大事にできればいいけど、不出来な部分だけを思い知らされ、投げやりにしてしまう子どもは多いのではないかという気がする。
「みんな違う」前提の方が無理がないと思うんだけど…
「〜する人なんて、社内で(私)さんだけですよー」という言い方をよくする後輩がいる。
きっと、この言い方が人を動揺させるのに効果的だと、知っているのだ。まさに同調圧力の利用。無意識に身に着けたのか、意識的なのかは、わからないけど。
つい「そうか、それはマズイなぁ」と、思ってしまう。
だけどよく考えたら、そんなこと言われても私はその他のみんなではないので困る。
ダメダメな行動は、それはそれとして指摘されるべきであるけど、わざわざ周りと比べる必要なんてない。
なので私は、子どもにはそういった言い方はしないようにしている。
むしろこれからは、「自分がされたら嫌なことはしない」だけでなくて、「私は嫌じゃないけど、あなたは嫌だと思うかもしれない」ことを想像して尊重することが大切だ。
だって“人はみんな違う”から。
理系か文系か、ではなくて
私の職業は、どちらかといえば“理系”と呼ばれる部類だ。
でもこの歳になって、よくよく思い返してみると、私自身は全然理系じゃなかったんだなと思う。
仕事では、時に数字やデータで説明することも求められるけど、数字は間違うし読み飛ばすし、数字で表すのも下手くそ。数字は何かを語るものでなく、ただの数字にしか見えないことも多い。
つまり数字が得意じゃない。
…ということに、ずいぶん歳を取ってから気づいた。我ながら呆れる。
別にここまでの道のりを、ひどく後悔してるわけではないけれど、でももう少し、自分を理解しようと努力すればよかったな、と思う。
じゃあもし、タイムマシンがあったとして、いつに戻れば軌道修正できるだろうか。
私の場合、それは高校生だと思う。
今はどうか知らないが、私の通っていた高校では、高校2年になったら理系か文系コースに分けられた。
田舎の普通高の中では割と成績のいい方だった私は、周りに流されるように理系コースを選んだ。
母親が理系推しであり、子どもに(当時の感覚で)男並みであることを求めていた影響もあるかもしれない。
そして理系コースに進んでから、私は大学の何学部に行きたいんだっけと考えた。
何となく自然科学系の学部を選んだのは、化学のおじいちゃん先生が、余談で語ってくれる自然科学の話が面白かったから。
でも今思えば…それは自然現象そのものを感じることが面白かったのであって、それを示す数字やデータにはあまり興味がなかったなぁと思う。
だけど高校生の私には、それをもっと突き詰めて考える必要性もわからなかったし、情報も全然足りなかった。
それでも、曲がりなりにも学部を選べただけで、まだ良かったのかもしれない。
大学の名前だけが目標になってる人もたくさんいたと思うし、実際学校では学部の内容なんて紹介すらなく、大学の難易度や受験科目の話ばかり。
今思えばそんなことより、自分は何が好きで何をやってみたいのか、それを真剣に考えることの方が、遥かに大切だったと思う。
貴重な時間の大半を、詰め込み型の受験勉強だけに費やすのは、本当に無駄だ。
いろんなことを経験する。そしてそのとき周りからの評価ではなく、自分の気持ちを確認する。好きか嫌いか、もっとやってみたいか、やりたくないか。
その繰り返しで、“自分がはっきり”見えてくるのだと思う。
とはいえ、時間には限りがある。人生の大きな選択が何度もできるわけでもない。
だから、「人の経験を聞く」ということも、いい方法なのではないかという気がする。
例えば、学校の先生はみんな、自分が通ってきた道なら少なくとも伝えることができるはずなのだから、話してほしいと思う。
先生になれたという、ある意味成功体験だけに偏りそうならば、誰彼連れてきて話を聞かせてほしい。
今どんな仕事をしてる人が、どんな場所で何を学んだか。身近な例で全然構わない。
今はインターネットがあるから、自分でいくらでも情報は得られるのかもしれないけど、それでも高校生くらいだと、本当に有益な情報にたどり着くのは、難しいと思う。
人生いろんな道があるんだということを伝えるだけで、子供たちの可能性は広がる気がする。
子どもの川遊び
毎年夏にかけては、やっぱり水遊びだ!と、川遊びできるキャンプ場を探す。
子どものはじける笑顔は、本当に尊いと思うし、体いっぱいで楽しんだ経験を、大人になるまでにたくさん持たせてあげたい。
ただし、川遊びは危険と隣り合わせ。
毎年、川で亡くなるニュースを目にする。
どの話もあまりに起こり得そうな状況ばかりで、本当に怖い。
親御さんの気持ちになれば、石を飲み込んだみたいにどうしようもなく重く悲しい。
よく、事故のニュースを見ると、「親は何してたんだ、何でそんな危険なところに行くのか」という批判を目にする。
…でもそれでも私は、水遊びの感覚、体じゅう使ってヘトヘトになるまでハマって遊ぶ楽しさを、どうしても体験してほしい。
なぜなら私たちは、死なないために生きているのではないから。
もちろん、目の届かないところで事故が起きたら悲しい。
だから、水遊び中に気をつけることはただ一つ、目を離さないこと。例えほんの一瞬でも。
昔、河川プールで、まだ幼い下の娘2人に気を取られ、少し離れた場所で遊ぶ長男が知らないうちに溺れかけていたことがある。
たまたま監視員の目に止まり、引き上げてもらったけど、私がそれを知るのは戻ってきた長男本人に聞いてから。
本当にゾッとした。
一瞬たりとも目を離すな、とは、本当にその言葉の通りだったのだ。
手が離せなかったとか、ついスマホを見てたとか、絶対やってはいけない。
私はそれから、水遊び中は3人の子供の姿を順番に目で追いかけている。ぐるぐるぐるぐるずっと見ている。
夫も一緒に。絶対にどちらかは目を離さないように。
まぁまぁしんどいけど、本当に心から楽しそうにしてる瞬間を見る嬉しさには、勝てない。
先日も、中学生どうしで川遊び中、流されて亡くなってしまうという悲しいニュースを知り、子どもと話をした。
友だちが川に落ちたら、どうすればいいか?
じゃあ犬だったら?とか、ハッとする疑問も出た。
いろいろ話して、とにかく、まずは子どもだけで川に近づかないようにと話してたら、真面目な長女(小5)、「え?じゃあ大学生くらいになっても、お母さんについてきてもらったらいいの?」
「…そこまではしません」
それまでに、水遊びの楽しさと、容赦ない自然の怖さを、十分に覚えてほしいと思ってるよ。
女であるという認識
私のジェンダー認識は、心身ともに女、で間違いないと思う。たぶん。
でも、女らしいとか、女扱いされるとかされないとか、そのあたりの話題がどうも苦手。
何というか…自分が女を語るのはおこがましいというか、何か違う気がするというか。
女性の少ない職場で長く働いているので、考え方が“名誉男性”っぽくなってるのかも知れない。とても不本意だが。
それと、あまり自虐するのは良くないけど、私は見た目が女性らしくない。背も高いし、出るとこ出てないし、あと、声も低い。ショートカットに、パーカー&ジーンズ姿だと、女子トイレでおばちゃんにジロジロみられるほど😰
実際のところ、これが私があまり女性側で語れない1番の理由だと思う。
それに加えてもう一つ、思い出してしまう出来事がある。小学校高学年の頃の話。
うちの町内はとても子どもが少なく、同学年も数えるほどしかいなかった。
その中に、とても活発で明るい同級生の女の子がいて、彼女は大人たちにも人気者。
ある日、子ども会の何かのイベントで、彼女が来れなかったことがあった。
きっと、その時の私は、彼女の代わりをやらなきゃいけないと、無意識に思ったんだと思う。それか、彼女がいない時に、そのポジションを味わってみたいと思ったのか(笑)
私にしては割とハイテンションで、町内のおじちゃんと話してた。楽しかったと思う。
だけどその帰り道、一緒に参加していた母が私に「何アンタあの態度。みっともない」と言った。私に対する嫌悪混じりの。
突然で正直「え?」と思ったんけど、私がおじちゃんに媚びているように見えたんだろうか。たぶん、そういうことなんだろうと、その時思った。全くそういうつもりはなかったけれど、言動としては実際そうだったのかもしれない。
そう思うとたちまち私は恥ずかしくなって、自己嫌悪に包まれた。
私はそういうふるまいをしてはいけない人間なのだなと、自然と心に刻まれた。
別に、このことで母を責めたいわけではない。本当に媚びていたのなら、それはやめさせるべきだ。ただ、こんな些細な出来事が、私自身の認識を形作り、今もなお、少なからず影響を与えている。
勝手に囚われているのは私。とはいえ、結婚して子どももいるのだし、特に問題ないのだけど。
けれど…娘2人の親として、親は意図せず容易く子どもの精神をゆがめることがあるということを、忘れてはいけないと思う。
女性として扱われることに何の疑いも持たずにすむ人が、正直なところ、私はうらやましい。
キャンプ場で皿洗いはしません。
私は、洗い物はキャンプ場ではやらないことにしている。
炊事場は水しか出ないことも多いし、洗剤をたくさん使うのも気になる。
というか何より!…とにかくずぼらな私には、面倒すぎて。
手についた油がずっとぬるぬるするのも嫌い。
ということで、私がやってる方法を(というほどでもないけど)
①お皿
使い終わった食器は、残飯などを焚き火に放り込んで、古布やティッシュでポタポタしない程度にざっと拭き取る。
それから、重ねてレジ袋に入れて、クーラーボックスに入れて持ち帰る。
…これだけ。
家に帰ったら、食洗機で洗えるものは放り込み、あとはお湯を使って油汚れもスッキリ!
キャンプ場で洗うより、きれいに洗えるし、時間も早い!!
②バーベキュー台の網
これはもう…洗いたくなさすぎてなさすぎて、焚き火台買ってすぐに、洗わないですむ方法を調べた。
そしたら、皆さんやってた「焼き切る」方法!
これです!これこれ!
単純に、焚き火で網を焼くだけ(笑)
バーベキュー後の網を、トングで挟んで焼く。
油の付いたところ、食べ物のかけらが付いたところ、位置を変えながら炎に当てて、ジリジリ焼く。燃えてるのがよくわかる。
そしたら、油のぬるぬるもぜーんぶ炭化してしまう。
あとは、翌朝に網掃除ブラシでガシガシやれば、そのまま片付けオーケー♥
もしかしたら…網の寿命は縮んでるかもしれないけど、私は、それより自分の楽を優先で(笑)
夜寝る前に歯磨きに行くと、ママがよく洗い物をしているところを見かける。
これを見ると、偉いなぁと思うと同時に、「パパは何しとるんじゃい」と思ってしまう。
何で洗い物はママがやるって決まってるんじゃーい!
(もしかしたら、子供らの遊び相手はパパとか、もしかしたら手分けしてるのかもしれないけど)
冷えた夜にギトギトの皿洗いを水で、なんて私は絶対やりたくない。そんなんなら、キャンプはいかなくて良い!
トイレはキレイなキャンプ場がいい!!
そーです、私はへなちょこキャンパーです😊
宇宙の果てと、死んだあと
宇宙の果てに思いを巡らすことと、自分が死んだあとのことを想像するのは、どちらも自分の足元が揺らぐような、自分の姿が薄れるような感覚になるところが似ている。
宇宙は、どうなっている?
太陽系の外の銀河系の外の、銀河系の集まりの外、どこまで外側があるのだろう。
本当に永遠に外側があるんだろうか。ないのなら、どこまで広がっているのだろう。
そこは白い?どんな色?
昔父親が、空に向かって一直線に進んで宇宙に飛び出し、そのままずっとずーーっとどこまでも進んだら、いつか今いるこの場所に戻ってくるんじゃないのと言ってた。
もうずいぶん昔に死んでいて会えないけど、父も何となくそんなことを考えていたんだな、と。
宇宙には本当に、永遠に外側があるのか。
それすらわからないのに、普通に生活していることが滑稽に思えたりする。
この生活は、たまたま地球という星に生まれた生物が、たまたまそこにある物質を使って、生きているにすぎない。
たかだか100年足らずで死んでいくのに、人間関係で悩んでみたり、戦争してみたり、遠いところにいる宇宙人は、アホらしと見ているかもしれない。
自分が地球に生きていることは、宇宙から見たらほんの一瞬の偶然。
そして自分が死んだら。
日々の生活の中で、私が私であること、自分の意識そのものに疑問を持つことはない。
けれどこの意識は、生まれる前には存在しないものだったし、死んだら消滅してしまうもの。
昔からそれがとても不思議だ。
今、こんなにはっきりと間違いなく存在しているのに、いつか消えるのだ。
怖いとか悲しいとか、虚しいとかじゃなくて、ただ不思議。
肉体が滅びても意識は残って、別の人間に生まれ変わる…なんてのは、あるのかもしれないけど、そもそも私にそんな記憶なんてないから、あまり納得できない。
アリが理由もなく一瞬で踏み潰されてしまうように、人間も死んだらそこまで。ただ、それだけなのだと思う。
死ぬ感覚は、眠りにつくみたいな感じかなと想像している。
お布団に入って眠るみたいに平和的だといいけど、実際は病気や怪我で壮絶に苦しんだり、熊に食われたり、人に殺されたり。
可能性はいろいろあって、痛いとか苦しい思いをするのかもしれない。それでも死んだ瞬間、眠ったような、安らかな気分になれるような気がしている。
別に今死にたいわけではなく、死ぬことはもちろん怖い。
でも一方で、「みんないつかは死ぬ」という事実と、“永遠の眠り”につく時安らかな気持ちになるだろうことは、わずかだけど安心感をもたらしてくれるような気がする。
それは、私という人間が全く認識できないほど広い、宇宙の果てを思うときの安心感と似ていると思う。